普天間基地問題の経緯と現状

普天間基地といえば、沖縄本島の中南部(宜野湾市)に位置する在日米軍海兵隊の航空基地です。

普天間基地は、日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の第6条に基づき、日米地位協定によって設置されています。

日米安保条約と地位協定

日米安保条約 第6条

日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

 

日米地位協定 第二条1(a)

合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。

個個の施設及び区域に関する協定は、第二十五条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。

普天間基地は、“世界でもっとも危険な基地” などと報道されることもあります。 普天間基地が問題視されるのはなぜか、その経緯と普天間基地の現状をみてみます。

 

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米軍が日本に駐留する経緯

経済大国でありながら、なぜ日本には米国の軍事基地があるのでしょうか?

それは冒頭でみてきたように、日米間の条約で取り決められているからです。

最初に、日米安全保障条約が結ばれたのは、1951年9月8日で、いわゆるサンフランシスコ講和条約が結ばれた日と同日になります。 発効したのは、翌年1952年4月28日です。

第二次世界大戦で日本が連合国に敗れ、およそ6年8ヶ月にわたってGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)、実質米国に統治されたわけですが、日本は解放後もこの日米安全保障条約によって、間接的に米国に統治されているといえなくもありません。

表向きは武装できない日本とそれを護る米国という関係が今も続いています。

日本国憲法 第9条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

   『沖縄の米軍基地の負担率について考えてみた

 

在日米軍にとっての普天間基地

普天間に基地がつくられたのは、1945年のことです。 第二次世界大戦中の1945年3月、米軍は沖縄に攻撃を仕掛け、地上戦がおこなわれました。

やがて宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、現在の普天間基地の場所に、大規模な滑走路を持つ米軍の飛行場が建設されました。 もちろん、その後に起こるであろう日本本土攻撃の準備のためです。

同年8月15日、日本は敗戦をむかえますが、その後も普天間は米軍の飛行場として使用され続けます。

日本がGHQの統治から解放されたのは、サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日でしたが、沖縄県は1972年の5月15日の沖縄返還の日まで米国の統治下にありました。

戦後、米国は共産主義国家(ソ連・中国)に対抗する必要性がでてきました。 ソ連・中国に睨みをきかせるために、沖縄の基地の重要性が増していたこともあって、米軍は1953年に『土地収用令』を公布し、基地の拡張のために土地を強制的に接収する処置をとりました。

普天間基地はそういった世界情勢の中で、益々その重要性が増していったといえます。

   『翁長知事は尖閣諸島問題をどう考えている?

 

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普天間基地の現状と未来

現在の普天間基地の近辺を写真で見ると、大変危険な状況におかれていると誰もが感じるでしょう。

実際2004年には、基地近隣の沖縄国際大学にヘリコプターCH-53Dが墜落する事故がありました。 幸い学生などに被害はありませんでしたが、ヘリコプターの米軍乗組員3名に負傷者が出ました。

毎度毎度、軍用機が離着陸を繰り返し、市街地の上を飛んでいくのですから、騒音も相当なものです。

 

基地が先? 市街地が先?

ただ、基地ができた当初は、住宅も学校もほとんどない状態でした。 米軍が強制的に土地を接収し退去させた経緯もあり、現在のように住宅が密集してはいませんでした。



「普天間基地ができたところに人が集まって、住み始めたんじゃないか」という批判的な声が、インターネットの普及と共に大きくなっています。

これに対して宜野湾市の資料では、

沖縄戦前の宜野湾村の中心は字宜野湾で、現在の普天間飛行場の中にありました。 普天間飛行場の場所は、もともと役場や国民学校、郵便局、病院、旅館、雑貨店がならび、いくつもの集落が点在し田畑が広がるのどかな丘陵地でした。

現在のような運用がされ始めたのは、1978年に北谷町のハンビー飛行場が返還されたことに伴い、その機能が普天間飛行場に移されてからになります。 1975年時点で人口は5万人を超えておりました。

普天間飛行場が現在のような運用がされ始めた時にはすでに、基地周辺には市街地が形成されておりました。

と説明しています。

宜野湾市の言っていることも事実なのでしょうし、基地があることで人が集まってきたことも事実でしょう。

 

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宜野湾市の人口推移

下の表は、宜野湾市の人口推移です。

 

宜野湾市の人口は年々増加し、すでに9万人をこえていて、1970年代の2倍になろうとしています。 10万人をこえるのも時間の問題です。

宜野湾市の面積が19.8K㎡(2013年10月現在)に対して普天間基地の敷地面積は約4.8K㎡です。

実に、市の面積の約24%を基地が占めていることになります。 しかも市の中央に位置し、宜野湾市を東西に分断している形です。

それでも人口が増え続けているということは何を物語っているのか、イデオロギーに関係なく考えてみるべきです。

宜野湾市では、基地が移転した跡地に、主要幹線道路や住宅・公園、リゾート施設をつくる構想があります。

 

自民党・公明党の推薦をうけて2016年に再選を果たした佐喜眞淳(さきま あつし)宜野湾市長は、広報でこう述べています。

「普天間飛行場返還合意の原点は「危険性の除去」と「基地負担軽減」であり、普天間飛行場の固定化は絶対にあってはなりません。

沖縄県や関係機関と連携し、引き続き普天間飛行場の一日も早い閉鎖・返還とその間の危険性の除去及び基地負担軽減の早期実現に向け取り組んでまいります。」

辺野古への基地移転反対は、普天間基地を継続して使用するという結果を生み出す可能性があります。 もちろん「普天間にも辺野古にも基地はいらない」という沖縄の声が大きいのも事実です。

何のための基地か、誰のために軍隊が必要なのか、この点で共通認識を持った人が良い知恵を出しあい議論する必要性を感じます。

 

【関連記事】⇒『沖縄の米軍基地の負担率について考えてみた』 『翁長知事と中国との関係は深いのか?

 

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