
お笑い芸人の鉄拳が、パラパラ漫画『振り子』で注目されたのは、
2012年のことです。
パラパラ漫画『振り子』(動画)
その頃の鉄拳は、お笑い芸人としての自分に限界を感じていて、
すでに、所属するよしもとに辞めることを伝えていました。
生まれ故郷の長野に土地も探していて、
帰ってイラストの仕事でもしようと、考えていたそうです。
そんな中、パラパラ漫画の企画があり、
別の芸人が出演予定だったものを、
急きょ鉄拳が代役を務めることになりました。
その縁がきっかけとなって、
あの『振り子』が生み出されることになったわけです。
小学生の頃の夢は、漫画家になること。
高校生から本格的に漫画を描き始めて、少年誌への初投稿で、
1989年の第20回『ちばてつや賞』で期待賞をとりました。
1972年5月生まれの鉄拳ですので、16歳の時のことです。
ちなみにその時の作品名は、「サムライBEAT」でした。
ただその後、急速に漫画家への夢が冷め、
憧れはプロレスラーへと変わっていきます。
高校卒業後に、大仁田厚のFMWに入団したものの、
レフェリー要員として採用されたことに気づき、
半年後には退団します。
それから、劇団員を経て(滑舌の悪さから退団)、
お笑いの世界へと進んで行きました。
こうやって見てくると、結構簡単に夢をあきらめて、
次のことに挑戦しているように見えます。
鉄拳本人も、ふり返って、
「あっさりやめてしまっていた」と言っています。
けれども、お笑い芸人として注目された時のスタイルは、
しっかり過去の経験を生かしています。
ザ・ロード・ウォリアーズのメイクはプロレスから、
スケッチブックにイラストを描いてのフリップネタは、
漫画の技術を生かしてというように。
2012年に放送されたドキュメント番組『情熱大陸』では、
素顔を公開していました。
と思ったら、その1年以上前の2011年に、
小堺一機の『ライオンのごきげんよう』で素顔をあかしていましたね。
『振り子』が注目されてからは、
次々にパラパラ漫画の依頼が入ってくるようになり、
いつの間にか芸人を辞めるという話も自然消滅していました。
当初、一作品あたり2ヵ月かかっていたパラパラ漫画も、
今では、作品によって、
2週間程度に短縮できるようになりました。
たくさんのオファーがあるため、やむを得ない部分もあるようです。
1分間の作品におよそ360枚の原稿が必要(6コマ/秒)で、
通常プロモーションビデオは、4分前後の長さのため、
修正分の原稿も含めると、
一作品あたり1,500~2,000枚の原稿を描くことになります。
すべて手描き制作のため、一日長い時で16時間描くこともあります。
気がつけば、廻り廻って、
子供の頃になりたかった漫画家になったともいえます。
人生って、わからないものですね。
小学3年生の時にお母さんを癌で亡くしたことは、
鉄拳の人生にどれだけ影響があったかはわかりませんが、
『振り子』は自分の両親をモデルに作られているそうです。
天国のお母さんも喜ばれていることでしょう。